人物

ガンを患った妻が病床で語った「最後の7日間」に託された想いとは

2018年7月に小腸ガンを患い亡くなった妻の容子さんへの思いをつづった著書「妻が願った最期の「7日間」」が発売され大変話題になっています。

実はこの書籍は朝日新聞の投稿欄「声」に2018年3月に掲載されて、

またたく間にSNSで広がり19万もの「いいね」とシェアがされることとなった夫英司さんの文章に、

亡くなった後に見つかった妻・容子さんの日記や、ガンを宣告されてから始まった「二人の交換日記」などをまとめて、英司さんが加筆したものです。

この記事では、容子さんが最後に願った7日間がどういうものだったのかとともに、お二人の夫婦愛の軌跡についてご紹介したいと思います。

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Contents

宮本英司さんと容子さん、お二人の馴れ初め

お二人は早稲田大学の教育学部国文学科卒業です。

英司さんは新聞の投稿欄に文章を投稿し、容子さんは新卒で成女学園にて国語教師をされていた方で、文才豊かなご夫婦です。

英司さんと容子さんは、大学の授業をさぼりがちだった英司さんへ、容子さんが社会学の授業のノートを貸したことがきっかけで交際がはじまりました。

岐阜の実家へ一時帰ることとなった英司さんから容子さんへ、貸したノートとお礼の手紙と「鵜(う)の小さな木彫り」が入った郵便が届きました。

岐阜から戻った英司さんは、この頃流行っていた学園紛争で授業が休校になるたびに、近所の喫茶店でデートしたそうです。

目白のお嬢様育ちだった容子さんは、成績優秀、90点とれたとしても「何故100点じゃなかったのか」を悔やむような女性でした。

一方、英司さんは成績なんて優・良・可・不可のうち、「不可じゃなければいいんじゃない?」という岐阜の田舎育ちののんびりした青年でした。

英司さん容子さんの就職活動

英司さんは偕成社や新聞社など出版業界を目指しましたが、あえなく失敗しました。

父親のすすめで「山崎製パン」に就職します。

容子さんは教育学部長の紹介で、成女学園の国語教師に一人欠員がでたとのことで、ほどなくして就職が決まりました。

英司さんは山崎製パンの名古屋支店に配属がきまり、容子さんとは遠距離恋愛となってしまいました。

今のようにインターネットやSNSが普及していない時代だったので、

お二人とも話したいことがたまってしまい大変だったと、交換日記のなかに綴っています。

社会人3年目ついに結婚へ

英司さんは親元を離れていて暮らしていたので、なかなか結婚に向けてお金を貯めることができないでいました。

月給3万円ほどの中から、容子さんに1万円渡して積み立ててもらっていました。

容子さんの姉が、「早稲田大学に知り合いがいるから「大隈講堂」で式をあげなさいよ」とおせっかいを焼いたことから、

あっという間に式の日取りが決まり、1972年の5月21日に結婚式を挙げました。

英司さん容子さんの結婚生活

 

英司さんが借りていた目白駅から10分の風呂なしアパートでの生活が始まりました。

銭湯の前でお互いが出てくるのを、二人で待ち合わせたりして、お金がなくてもおだやかで幸せな日々でした。

容子さんは長男・拓さんを妊娠し、子宮筋腫があったため帝王切開で出産しました。

英司さんがスーパーヤマザキの鶴川店に転勤になると、山崎製パンの鶴川の寮に引っ越しました。

この頃、次男・圭司さんを妊娠し出産しています。

英司さんと容子さんは、休みの日にはお弁当を持ち、広場などで走り回らせて二人の男の子をのびのびと育てていました。

マイホームの購入

英司さんの勤め先が山崎製パン本社のある千葉県の市川市になるとわかって、

お二人は「千葉に住むのもいいかもね」と言って、千葉県袖ケ浦市長浦にある分譲住宅を見学するツアーに参加します。

一目ぼれで購入を即決した一戸建てに、頭金800万円を投入し、広々とした庭つきの家で幸せな生活が始まりました。

長浦では息子さんたちは二人とも地元のサッカークラブに入り、日曜日のたびに英司さんは息子さんたちの送り迎えをしたと言います。

2015年の春、容子さんのお腹の不調

容子さんがお腹の不調を訴えたので、近所の内科医かったところ、「大腸炎」だと診断されました。

心配になり大きな大学病院で検査を受けたところ、はじめは「感染性の腸炎」と言われたものの、

再度訪れた時には「小腸に腫瘍がある」と言われてしまいます。

悪性か良性かはわからないけど、腫瘍が原因で腸閉塞をおこしているとの診断でした。

小腸への内視鏡検査の結果、「小腸ガンのステージ4」との診断を受けてしまいます。

容子さんは医師に、余命は「平均で2年」だと告げられます。

容子さんは何も言わずに静かに聞いていたそうです。

そしてノートに一文だけ、「ガン宣告」と記入しました。

ガン宣告の翌年2016年2月19日から、二人が知り合ってちょうど50年の記念にと「二人の物語」という交換日記のようなものを書き始めました。

2017年12月の上旬、容子さんは気管支炎の影響から一時的に話ができなくなりました。

退院は難しいことはわかっていましたが、具合のよい時には一時的に帰宅できるのではないかと、

この頃から二人はよく「家に帰ったらやりたいこと」を話すようになりました。

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神様がいたらお願いしたいこと~7日間の元気な時間がほしい~

 

抗がん剤の投与や副作用で衰弱した容子さんは筆記用具も持つ力もなく、

英司さんが替わって容子さんの言葉を書きとめるようになりました。

容子さんの詩「七日間」

神様お願い この病室から抜け出して

7日間の元気な時間をください

一日目には台所に立って

料理をいっぱい作りたい

あなたが好きな餃子や肉味噌

カレーもシチューも冷凍しておくわ

二日目には趣味の手作り

作りかけの手織りのマフラー

ミシンも踏んでバックやポーチ

心残りがないほどいっぱい作る

三日目にはお片付け

私の好きな古布や紅絹(もみ)

どれも思いが詰まったものだけど

どなたかもらってくださいね

四日目には愛犬を連れて

あなたとドライブに行こう

少し寒いけど箱根がいいな

思い出の公園手つなぎ歩く

五日目には子供や孫の 一年分の誕生会

ケーキもちゃんと11個買って

プレゼントも用意しておくわ

六日目には女友達で集まって

憧れの女子会しましょ

お酒も少し飲みましょうか

そしてカラオケで十八番(おはこ)を歌うの

七日目にはあなと二人きり

静かに部屋で過ごしましょ

大塚博堂のCDかけて

ふたりで長いお話しましょ

神様お願い 七日間が終わったら

私はあなたに手を執られながら

静かに静かに時が来るのを待つわ

2018年1月19日午前5時、容子さん永眠されました。

ガンを患った妻が病床で語った「最後の7日間」に託された想いとはのまとめ

容子さんが最後に願った7日間がどういうものだったのかとともに、お二人の夫婦愛の軌跡についてご紹介しました。

お二人はささいなケンカはしたけれど、大きなトラブルもなく夫婦生活を送られ、二人の息子さんの子育てを終えられました。

容子さんの晩年の闘病生活を除いては、ほんとうに穏やかな日々を送られていたようです。

英司さんの書籍の中の容子さんの言葉で「私がガンにならなかったら、拓や圭司、あなた(英司さん)に辛い思いをさせることはなかった」、

「ごめんなさいね」、「ありがとう」とう言葉が何度も出てきて涙なしには読み進めることができませんでした。

英司さんと容子さんの25歳の時の結婚式のお写真は、美男美女で二人とも柔らかな表情をされており、とても素敵でした。

英司さんと容子さんは最後まで、お互いを思い、思いやりながら静かな時を迎えたのだと思います。

容子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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ABOUT ME
なぎさ
東京都在住。 二人の男の子のシングルマザーです。 ファイナンシャルプランナー。 好きなものは、息子、音楽、城、南の島、ネコ、ビール、鼻ぺちゃ犬、マンガ、映画館、空港、腕時計。
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