こんにちは!なぎさです(*‘∀‘)
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今回は俳優の中村梅省さんの祖父である、中村翫右衛門(なかむらかんえもん)をご紹介したいと思います。
Contents
中村翫右衛門とはどんな人物?
歌舞伎役者
三代目 中村中村翫右衛門
本名 三井金次郎
屋号 駒村屋
父 二代目中村中村翫右衛門
1901年2月2日生まれ(東京本郷湯島生まれ)
1982年9月21日、81歳で亡くなっています。
東京武蔵野市を本拠地とする、前進座という歌舞伎劇団の創立者の一人です。
中村翫右衛門の略歴
1906年(明治39年) | 東京柳盛座、東京柳盛座『山姥』の烏天狗役で初舞台。 |
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1911年(明治44年) | 歌舞伎座で名題昇進、三代目中村翫右衛門を襲名。 |
1929年(昭和4年) | 歌舞伎界を批判して松竹を脱退。師匠から破門。二代目市川猿之助の「春秋座」に参加する。 |
1931年(昭和6年) | 四代目河原崎長十郎、五代目河原崎國太郎などとともに前進座を結成、中心俳優となる。歌舞伎をベースとした新しい演劇を目指す一方、映画にも出演、山中貞雄監督の『街の入墨者』『河内山宗俊』『人情紙風船』などに出演する。 |
出演作品
歌舞伎 | 『傾城反魂香』の絵師又平、『平家女護島』の俊寛、『勧進帳』の富樫左衛門、『新皿屋舗月雨暈』の魚屋宗五郎、『御浜御殿綱豊卿』の富森助右衛門 |
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ドラマ出演 | 三匹の侍、天と地と、柳生十兵衛、遠山の金さん捕物帳、大忠臣蔵、夫婦旅日記さらば浪人、横溝正史シリーズ獄門島、松本清張シリーズ天城越え、若き日の北条早雲など |
映画 | 街の入墨者(1935年)監督・山中貞雄、三次郎役、河内山宗俊(1936年)監督・山中貞雄。金子市之丞役、戦国群盗伝 前後篇(1937年)監督・滝沢英輔。甲斐六郎役、人情紙風船(1937年)監督・山中貞雄。髪結新三役、大日向村(1940年)監督・豊田四郎、元禄忠臣蔵 前後篇(1941〜1942年)監督・溝口健二。富森助右衛門役、宮本武蔵(1944年)監督・溝口健二。佐々木小次郎役、どっこい生きてるなど |
著書 | 『愛人の記』(三一書房、1958年)、『人生の半分 中村翫右衛門自伝』(全2冊、筑摩書房、1959年)、『芸話 おもちゃ箱』(朝日新聞社、1970年 / 朝日選書、1982年)、『演技自伝』(未來社、1973年)、『歌舞伎の演技』(未來社、1974年)、『劇団五十年 わたしの前進座史』(未來社、1980年) |
中村翫右衛門が前進座を創立するまでの経緯
1911年、翫右衛門は五代目中村歌右衛門(なかむらうたえもん)に、師事し三代目中村梅之助を名乗っていました。
1920年に歌舞伎座で名題昇進し、中村翫右衛門を襲名。
1929年に歌舞伎界の在り方に疑問を抱き、松竹を脱退します。
新たに劇団進前座を旗揚げし、大黒柱として劇団をけん引することとなります。

中村翫右衛門が中国に亡命しなくてはならなかった理由とは
戦後の混乱の中、中村翫右衛門は前進座の座員とともに、日本共産党に入党していました。
当時連合国司令官ダグラス・マッカーサーによる、共産党員や共産党員同調者にたいしての厳しい弾圧がありました。
共産党員や共産党員の指示者は、公の職に就けなかったり、すでに職についていた者は、解雇される動きがありました。
赤平事件
1952年、翫右衛門は北海道の赤平市の小学校で公演を行おうと、会場をおさえていました。
しかし、警察の弾圧によって、公演当日になって小学校の体育館が使えないことが発覚。
翫右衛門は、すでに会場に観客も集まっていたことから、「公演中止のあいさつ」を行います。
このあいさつという行為を、警察はさらに、「家宅侵入罪」として、劇団の一行の一部を逮捕しようとします。
さらに、小学校の職員と劇団員がもみ合いなり、けが人が出てしまいます。
翫右衛門に対して、器物損壊・傷害の容疑で逮捕状が出されました。
驚くことに、翫右衛門は一週間もの間、逃亡生活を送りながら、舞台をこなします。
このことが、きっかけで「神出鬼没の翫右衛門」との異名をとりました。
しかし、翫右衛門は公演が終わり、この会場使用中止で巻き起こった騒動の逮捕を逃れるために、中国に亡命します。
帰国したのは、3年後の1955年。
凱旋帰国として、大々的にマスコミに報じられました。

翫右衛門が1955年の国慶節(こっけいせつ)を期に帰国
1955年、2代目市川猿之助の一座が、大阪歌舞伎座社長である松尾國三(まつおくにぞう)の帯同で、中国を訪問することになります。
11月7日に猿之助が、翫右衛門を連れて帰ります。
翫右衛門の帰国に際して、久原房之介(くはらふさのすけ・政治家・実業家)や、松本治一郎などの社会党員が身元引受人となっています。
翫右衛門は後の裁判で、執行猶予付きの有罪になりました。
太平洋地域平和会議
1952年中国共産党員の大衆組織が、「アジア太平洋地域平和会議」という国際会議を北京で開こうと計画していました。
日本からの参加メンバーとして、戦前の労働党員である、大山郁夫や日本社会党の松本治一郎、神近市子(かみちかいちこ・政治家・ジャーナリスト)が、中国訪問を計画していました。
しかし、日本の外務省がこれらのメンバーのパスポートの発行を拒否した為、大山郁夫や松本治一郎の訪問は見送られることになりました。
日本政府の態度が変わらないことを悟った中国共産党員の大衆組織は、翫右衛門ら数人の日本人が北京に在住していることをつきとめます。
翫右衛門は突如、日本代表団の一人として、アジア太平洋地域平和会議に参加することになりました。

中村翫右衛門(なかむらかんえもん)が、亡命した理由とは?激動の時代が物語ることのまとめ
中村翫右衛門は戦後の混乱の中でも、表現者として歌舞伎の公演を続けることに命をかけていました。
しかし、座員とともに日本共産党に入党したことをきっかけに、政治的理由で弾圧を受け、不当に逮捕されそうになりました。
この理不尽さから免れるために、命をかけていた歌舞伎の公演も3年間行うこともなく、北京でひっそりと暮らしています。
太平洋平和会議に日本代表メンバーが参加できないことから、代わりに翫右衛門が参加することで、亡命生活にもかかわらず、突如スポットライトを浴びることに。
北京にいることが判明した翫右衛門は、市川猿之介の訪中公演をきっかけに日本に連れて帰ってもらいました。
時代の流れに翻弄されながら、翫右衛門は表現者として、その後も映画やドラマにも出演し、活躍の場を広げていきます。
現在は、党派や思想が違うだけで逮捕されることはけっしてありません。
太平洋戦争中はもちろんのこと、戦後の混沌とした時代の流れは、私たちの想像を絶するものがあります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。