人物

佐々木友次(特攻隊)は何故上官の命令に背いた?不死身の男の戦後とは!?

こんにちは!なぎさです(*‘∀‘)

今回は太平洋戦争末期に、「必ず死んでこい」という、上官の命令に背き、9回の出撃から9回とも生還した、佐々木友次さんという人物をご紹介したいと思います。

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佐々木友次さんプロフィール

1923年(大正12年)、7男5女、12人兄弟の6男として北海道当別町(とうべつちょう・石狩群当別村)に生まれます。

子どもの頃から飛行機が大好きで、17歳で逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所に入所しました。

この養成所は卒業後陸海軍で訓練を受けた後に、予備役の下士官となるもので、訓練は軍同様の厳しいものでした。

その後鉾田陸軍飛行学校(ほこたりくぐんひこうがっこう)に配属され、九十九式双発軽爆弾機で急降下爆弾訓練に励みました。

1944年(昭和19年)10月に、フィリピンの第四航空軍に配属になり、陸軍で研究されていた跳飛爆弾の第一人者である岩本益臣大尉(いわもとますみたいい)が率いる陸軍初の特攻隊「万朶隊(ばんだたい)」の所属になりました。

万朶隊が急降下攻撃や跳飛爆弾を投下する命がけの訓練を積んでいたにもかかわらず、陸軍が最終的に下した命令は特攻隊の「体当たり攻撃」でした。

佐々木友次さんは、岩本大尉の命令である「出撃しても爆弾を命中させ、生きて帰ってこい」という言葉を胸に、1944年(昭和19年)11月の特攻に出撃して以来、9回出撃し9回生還を果たしました。

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佐々木友次さんが参謀の命令に背きつづけた信念とは

佐々木友次さんは、出撃して生還するたびに、上層部から「必ず死んでこい」という理不尽な命令をあびせられ、また出撃しました。

その信念には、日露戦争で突撃隊「白襷隊(しろたすきたい)」として戦地に赴きながらも、生還した父の藤吉の「人間、そんな簡単に死ぬもんじゃないんだ」という父の言葉が常にありました。

また、日々死と隣り合わせの飛行の訓練を積んできたパイロットにとって、爆弾も投下せず「体当たりして死んでこい」という命令は、太平洋戦争における上層部の稚拙な戦術の尻拭いをさせられる上に、プライドを踏みにじられる耐えがたい言葉でもありました。

佐々木友次さんの所属する万朶隊を率いる岩本大尉の作戦

一人のパイロットを養成するのにどれほどのお金と時間がかかるのか、よくわかっていた岩本大尉は、「体当たり作戦」に猛反対しました。

岩本大尉は命令違反を覚悟の上で、爆弾を投下できない特攻専用機を、爆弾を投下できるように改造しました。

上層部のいう、「体当たり攻撃」では、威力が弱くて敵の船を沈められない、つまり全く戦果がないということをよくわかっていたのです。

そして部下たちに、「必ず爆弾を命中させて、生きて返ってくるんだ」と告げました。

岩本大尉は部下にこのことを告げた6日後、出撃の途中で、敵機であるグラマン戦闘機から爆撃を受け亡くなりました。

佐々木友次さんが出撃から戻ってから

 

佐々木友次さんは仲間が次々と出撃して行き、帰らぬ人となっていく中で、最後まで岩本大尉の言葉を信じ、信念を貫き通しています。

佐々木さんの爆撃の戦果は、マスコミで大々的に報道され(亡くなったことにまでされました)、天皇へまで報告されました。

佐々木さんは、上官たちから「次は絶対に帰ってくるな!」「今度は爆弾ではなく、体当たりで船を沈めろ!」と怒鳴りちらされ、罵声を浴び、死ぬことを強要されました。

佐々木友次さんは戦後どうしていたか

太平洋戦争が終結し、佐々木さんは故郷である当別町に戻り、長い間農業を営んでいたといいます。

当別町は札幌から電車で40分程で行ける地域で、佐々木さんの住んでいた当時は、花作りと稲作が中心の農家が多かったようです。

豪雪地帯のため、農業がうまくいかず廃業する農家も多かったとのこと。

そんな中で、晩年まで農業を営み、故郷の当別町で暮らしていました。

佐々木さんは2016年2月、年92歳で亡くなられています。

この故郷である当別町の茂平沢周辺の集落にある、大きくて立派なお墓の一角にある佐々木家のお墓で眠っています。

佐々木友次さん(特攻隊)不死身の男・まとめ

今回は上官の命令に背き、9回の出撃で9回生還した不死身の男、佐々木友次さんをご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

仲間が出撃して行って、爆撃され亡くなったり、上層部の命令に逆らえずにそのまま体当たり攻撃して、帰らぬ人となっていく中で、佐々木さんはどのような気持ちでいたのでしょうか。

また、佐々木さんが9回の出撃して、無事生還できたという事実には、佐々木さんの強い信念を後押しするものとして、万朶隊の中でもズバ抜けて高い飛行技術を持っていたということが言えるでしょう。

佐々木さんは晩年、作家の鴻上尚史(こうがみしょうじ)さんの著書の出版に際するインタビューの中で、4人乗りの九十九式双発軽爆弾機を「自分の羽のように操れる」と語っています。

現代社会においても、会社や団体に所属していれば、理不尽な出来事や上司の命令に従わなくてはならないことも出てきます。

多少の理不尽さなら、従えることもあるかもしれません。

ただ、その理不尽さが命にかかわるものであるならば、私は真っ向から歯向かっていいものであると思っています。

佐々木友次さんのご冥福をお祈りするとともに。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

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ABOUT ME
なぎさ
千葉県在住。 二人の男の子のシングルマザーです。 週5日、都内のクリニックで働いています。 好きなものは、息子、音楽、南の島、ネコ、鼻ぺちゃ犬、マンガ、映画館、空港、腕時計。 どうぞよろしくお願いします(*‘∀‘)
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