五・一五事件で暗殺のターゲットにされていた犬養毅とともに、チャップリンも暗殺計画の人物に加えられていました。
アメリカの国民的大スターであるチャップリンがなぜ、暗殺のターゲットにされたのでしょうか?
この記事では、その当時のチャップリンの秘書である高野虎市(こうのとらいち)とともに、チャップリンの暗殺計画と、五・一五事件を紹介したいと思います。
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五・一五事件とはどんな事件?
1929年(昭和4年)にニューヨークでおこった株式相場の大暴落を発端に、世界恐慌がはじまりました。
日本にも翌年に大影響が表れ、「昭和恐慌」が起こりました。
農村部では作物の価格が低下し、翌年には冷害もおこり大貧困におちいっていました。
男子は欠食児童となり、女子は身売りの対象となっていました。
そんな貧しい地方の家から東京に出てきた陸軍士官学校の生徒たちをまとめる、海軍中尉の古賀清志や中村義雄がリーダーとなって当時の首相である犬養毅の暗殺を企てます。
経済が悪化して政府に対する国民の不満が高まる中、政治家たちは不況対策そっちのけで、贈収賄事件をおこし、スキャンダルの暴露合戦を繰り返していました。
そんな矢先の1930年、ロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本国民を貧困から救うには軍事力主導で政界財界をつぶし、アメリカと対等であるために闘い続けなければならないと思いこんでいる青年将校たちの不満が高まりました。
将校たちのテロのターゲットは首相である犬養毅、内大臣官邸、立憲政友会本部、三菱銀行、アメリカの象徴であるチャップリンでした。
犬養毅を暗殺し政治の中枢を奪い取った上、チャップリンを暗殺することでアメリカを激怒させ、日米開戦にもちこもうとしていました。
高野虎市とはどんな人物?
1885年、広島県の裕福な家庭に生まれたものの、1900年にアメリカに移民として渡りました。
1913年、同じ広島の出身であった「イサミ」と結婚します。
3年後の1916年、チャップリンの運転手として雇われましたが、後に秘書としてチャップリンを献身的に支えていました。
チャップリンの内縁の妻である、ポーレッド・ゴダートの浪費癖を高野虎市が指摘したところ、チャップリンとの関係性もギクシャクし自ら秘書を辞任したようです。
それまで18年間、チャップリンの秘書を務めました。
チャップリンは犬養毅に、首相官邸で行われるパーティーに招かれていた
高野の影響もあって、大の日本びいきであるチャップリンが日本での観光を楽しめるように、高野は綿密に計画をたてていました。
高野はホテルに戻る前に、皇居の前でチャップリンに皇居に向かって「一礼」させて、チャップリンの命を狙う将校たちの心象を良くしようとするためのパフォーマンスも行いました。
好都合なことに、チャップリンは首相官邸で、歓迎会が行われる当日に「相撲が見たい」と言い出し、相撲観戦に切り替えます。
チャップリンは大好きな「天ぷら」も堪能しつつ、歌舞伎を見たり、あげくの果てには泊まっていたホテルを抜け出し、料亭で美女に囲まれ大はしゃぎ。
通報を受けた高野はチャップリンの豪遊ぶりを、近くて見守りました。
日本国のファシズム傾倒。そして日中戦争へ
チャップリンの命は免れたものの、犬養毅は官邸でに将校により射殺されました。
5・15事件によって海軍大将の斎藤実(さいとうまこと)が組閣し、政党による内閣が終わりました。
その後、日本国は国際連盟を脱退。
陸軍では、国家総力戦体制をめざす「統制派」と「天皇親政」を唱える「皇道派」とで対立します。
統制派が軍部の中枢を占めだすと、危機感を感じた皇道派の青年将校たちは1936年、クーデターをおこします。
蔵相の高橋是清(たかはしこれきよ)、内大臣斎藤実を殺害し、首相官邸や議事堂を占拠しました(2・26事件)。
その後、日本軍は万里の長城以南への侵略を始め、日本国は日中戦争、第二次世界大戦へと妄信していきます。
チャップリン暗殺計画を阻止した高野虎市のまとめ
今回はチャップリンの秘書である高野虎市とチャップリン暗殺計画の時代背景や、5・15事件についてご紹介しました。
チャップリンも自分の母国であるアメリカと、大好きな日本が戦争をすることなんて望んでいなかったでしょう。
秘書の高野虎市もアメリカでチャップリンの身の回りの世話をしながら、黙ってアメリカと日本の激戦ぶりを見て過ごさなければならなかったでしょうね。
その時の高野虎市の心情を思うと、想像を絶するものがありますね。
8年間続いた戦争も、もとはと言えば、「貧しさに苦しんでいる国民を救いたい」という青年将校の起こした事件がきっかけでした。
また国民も将校のおこす事件に拍手喝さいし、署名運動して将校たちの罪を軽くさせてしまったという時代背景もあるでしょう。
どんな理由があれ、テロ行為や侵略・戦争はいけないことですが、「食べる物もない、生活が苦しい」ということが、人々の考える力を奪ってしまったのでしょうか。